maimemo

・「ITの発達が、社会を決定的に変える」というような
 盛りあげの記事がじゃんじゃん出ていたころ、
 ぼくは『インターネット的』という本を出しました。
 それは、インターネットの登場によって、
 いろんな変化はあるだろうけれど、
 根本的な問題は、それを使う「人間」が決める、
 というような内容でした。
 そこからずいぶん年月が経ちましたが、
 やっぱり「人間」の「こころ」の問題が最重要ですよね。
 
 「人間」という生きものには、
 ざっくり言って、20万年もの歴史があるわけです。
 20万年くらい生きてきた、その期間、
 生きやすいように生きやすいように生きてきた。
 それでも、あんまり変化してないんですよね。
 火器が発明されようが、宗教が生まれようが、
 グーテンベルグが印刷しようが、自動車ができようが、
 人間が変わったかといえば、そうそうは変わってない。
 表面的には変わったように見えるかもしれないけれど、
 目玉がおなじみの位置にふたつあって、
 鼻があって口があって耳があって、空気吸って水飲んで、
 こどもつくって、寿命がくれば死んでいく。
 いかにもすごい変化があるかのように語られることでも、
 人体のかたちを変えちゃうようなことじゃない。
 
 じゃ、文明史的な変化をばかにしているのかと言えば、
 そんなことでもないんです。
 「最近の、盛りあがりだろう?」というだけのことです。
 そのことばかりに集中して、
 そのことを重要だと思いこんだ状態で、
 見たり聞いたり考えたりしたら、
 そのこと以外のすべてと釣り合いがとれるくらいの、
 大きなものごとのように思えるんじゃないかな。
 
 インターネットなんていうものも、
 おもしろい、たいした道具だということはわかった。
 だけど、どれだけネットワークがすごくなっても、
 そこでつながりあってる主人公は、人間なんですよね。
 さらに、その人間ってやつは10万年かけてできてきた
 そうそうは変わりようのない生きものなんだと思うのよ。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
心臓という臓器が、ハートというこころの象徴なんだよな。

 例えば、ある女性が一足の靴を買おうとしている。
 どんな靴がいいかについて、まずは想像している。
 あるいは、どこかで見かけた靴のことを、
 「あれがいいなぁ」と思っている。
 その靴を買いに行く日がくるまでの間に、
 雑誌も見たっけな、街行く女性の足もとも気になった。
 ちょっと高い靴だったり、とても高い靴だったら、
 それを買うと決めるのにそれなりに悩んだりもする。
 ひょっとしたら、じぶんを説得するかもしれない。
 いざ、その靴を買いに行ったら、
 近くにもっといい色をした別の靴があった。
 わぁ、迷うなぁ‥‥どうしよう、どうする?
 そして判断し、決意してレジで待ち、包装してもらって、
 新しい靴を買ったよろこびといっしょに歩いて帰る。
 
 以上を、靴を買う女性のひとつの例だとします。

 そして、ある男性が靴を買おうとしている。
 「これも、古くなっちゃったしなぁ」
 どんな靴にしたらいいのか、多少考えるかもしれない。
 いや、考えないで、「こんなの」と決めている。
 いつ、買いに行こう。こんどの休みの日かな。
 いや、休みは休んでいたいからなぁ、時間ないよ。
 靴のことなんか考えてる時間ないな。
 誰か、ついでに買ってきてくれないかな。
 「ざっとこんなもの」っていうのでいいんだから。
 金に糸目はつけないんだけどな、安いほうがいいけど。
 ああ靴のことなんか考えなきゃよかった、めんどくさい。

 以上を、靴を買う男性のひとつの例だとします。
 
 これ、「靴」のところに、なにを代入してもいいんです。
 買い物することそのものを「たのしみ」にしている人と、
 買い物をすることを「めんどう」だと思っている人では、
 消費についての「たのしみ」と「期待」がちがいます。
 そしてなんと! つくっている側の人たちは、ほとんどが、
 「買い物するたのしみ」よりも、
 「多く売るよろこび」のほうを大事だと思う男性です。
 つくっている人は、買いたい人じゃない。
 そういう世の中が、どこかで変わって行くのかしらねー。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
「ほしい」「うれしい」が、人の動きをつくるんだよなぁ。

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 「バランス」が大事、というと、
 どうも血気盛んな若い人たちには、
 あんまりウケないような気がする。

 たぶん、欠落やら、過剰やらというもののほうが、
 デコボコしてておもしろいのだ。
 山あり谷ありだとか、飛び抜けた個性を持つだとか、
 「バランス」と正反対に思えるようなことのほうが、
 ドラマチックというか、物語性があるんだなぁ。
 
 ぼくも、じぶんのなかに、そういう傾向を持っている。
 それは、もう、まったく若い人たちと同じだ。
 「バランス」というと、のっぺりして退屈、
 というふうに感じたりしていたかもしれない。
 ただ、なんとなくではあるけれど、
 「バランス」もおもしろい、ような気もしていた。
 
 そんなお年頃のワタクシが、エルバ島で、
 石を積む遊びをはじめてやってみたというわけだ。
 もともとは、海外のアーティストがやっていたものだし、
 きっと昔から、人間はこういうことをやっていたと思う。
 大きな石や小さな石を、
 ありえないようなかたちで積み重ねていく。
 ここまでできるんだというだけで感心したし、
 機会があればやってみたいと思っていた。
 そして、エルバ島までやってきて、試してみたのだ。
 
 もちろん初心者ですらないぼくのやることだから、
 じょうずな人からしたら、笑っちゃうのだろうけれど、
 うまく危なっかしい安定が完成したときには、
 胸がすっとするような快感があるのだ。
 新しい力を加えることもなく、
 ただただ石がどうありたいかを尋ねて重ねるだけ。
 できることなら、できるし、
 無理なことは、たぶん無理なのだろうな。
 「バランス」のおもしろさは、いわば、
 ある種のプロデュースのおもしろさであり、
 力を加えることなく潜在的な能力を発揮させることだ。
 人体、組織、さまざまな活動、関係、ビジョン‥‥。
 「バランス」の側面から、いろいろ考えてみたい。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
新しい力を加えないというパフォーマンスって、興味深い。

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 もう3年くらいになるだろうか、
 『計るだけダイエット』というのをやっています。
 「体重計に乗って、計るだけでダイエットできる?」
 「ほんとに計るだけ?」「他になにかしてない?」
 と疑問を持たれるかもしれませんが、
 まずは、ほんとに計るだけ、なのです。
 
 朝、トイレに入ってから、
 いちばん軽いはずの体重を計ります。
 そして、夕食も済んでから、寝る前に、
 おそらくいちばん重いはずの体重を計ります。
 それを、折れ線グラフにするのですが、
 手書きでもいいですし、「スマホ」のアプリもあります。

 「計るだけ」をやっているうちに、
 自然に「知りたくなる」のです。
 なんで体重が増えたり減ったりするのかを。
 そうすると、ちょっと思い当たることが出てきます。
 「そうか、そういうことか」とわかったことがあると、
 ちょっとだけ気をつけてみて、その結果を、
 体重を計って確かめたくなってきます。
 「あ、やっぱり」と思ったり、
 「わかってるとも」と苦笑したりが繰り返されます。 
 これを、1週間、2週間と続けていくと、
 折れ線グラフが、ノコギリの歯の状態で右に下がります。
 つまり、体重が上がったり下がったりしながら、
 ゆったりと下がっていくのです。
 
 毎日の暮らしのなかで、体重に関わるようなことが、
 どういうことなのか、わかってきます。
 そうなると、体重を上げたり下げたりする生活方法が、
 やればできるようになってくるんですよね。

 もともと、「計るだけ」だったのです。
 食いすぎたなぁ、とか、太ったかなとかの感覚よりも、
 体重計に乗って「数字」で見ること、それを、
 毎日比べてなにか思うことが、変化をもたらすんです。
 「数字が苦手」とか、言ってるよりも、
 体重計に乗って、数字という事実を目で見ること。
 そこから、大きな変化だってスタートできるんですよね。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
思いっきりできることの範囲を知るためにも、計るんだよ。

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・ひとつ、これはこれで真実だ。
 世の人びとにとって、そして、
 世の人びとのひとりであるわたしにとって、
 ほとんど、だいたいのことは、
 「そんなこと知るか」である。
 どこかで、なにがあったというようなことは、
 「そんなこと知るか」というくらい遠いし、
 ほとんど関係づけることもできないのだ。

 そして、こういうことも言える。
 世の人びとにとって、そして、
 世の人びとのひとりであるわたしにとって、
 ほとんど、だいたいのことは、
 「つながっている」ように思えるものだ。
 なにがなにしてどうなってと、たどっていけば、
 じぶんのことのように、すべては関係ある。

 どっちも言えるし、どちらとも言えない。
 人は、じぶんなりの価値観で、
 さまざまなことを、関係ある関係ない、
 つながるつながらないを決めている。
 決めかねていることもあったりして、
 それはずっと気になっていたりする。
 
 関係あると、どうして決めたのか、
 関係ないと、どうやって判断したのか。
 それをまるごと説明できることは、ちょっとない。
 いいことわるいこと、すぐやることやらないこと、
 無視すること関わること、
 どう決めたのかについてわかることはない。
 じれったいものである。

 もともと、じぶんが、誰かを親として、どこかの時代に、
 どこやらで生まれたことが偶然だし、
 そのあと、誰にあって、どういう時間を過ごしたのかも、
 ほとんど偶然のようなものだ。
 それにしては、いろんなことを正しく判断させられる。
 ほんとは、無理なことなのにね。

 「縁」ということばは、たいへんな大発明だと思うなぁ。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
もやもやしたことを言ってて、読んでもらえないかも~。

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 この名門、本場っていう考え方は、
 あらゆる世界にあるものですよね。
 いい会社とか、いい学校に入りたいという理由も、
 「いい刺激」がほしいってことがあるんでしょうね。
 それによって、じぶんの持ってる「ぽてんしゃる」を、
 どんどん発揮していきたい、というような。
 こういうこと、「そんなの厳しすぎていやだ」という人も
 きっといると思うんですよ、ぼくにもその気持ちはある。
 ただ、ね、逆はどうなのかと思うとね。
 本場じゃない場にいたいかとなると、
 いやいや、それは厳しくないけど苦しそうです。
 まぁ、こういう半端なことを言いながら、
 それなりにがんばるってことが、おもしろいのかなぁ。
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 スポーツのチームにおいても、
 営利の企業体においても、
 非営利の団体においても、
 ただの仲良しクラブにおいても、
 人が、たがいに「こうありたい」
 という姿を考えてみたら、
 「誠実と貢献」というふたつの要素で、
 すべて言えてしまうのではないかと思いました。
 
 「誠実」は、たがいが信頼し合うために不可欠です。
 「誠実」ということばが、なにを表わしているのか、
 いちいち考えたりそれを数えあげていったら、
 きりのないことになるかもしれません。
 でも、誠と実というふたつ漢字の意味するものは、
 たいていの人に理解できるのではないでしょうか。
 おそらく、じぶん自身のやっていることを、
 「それは誠実なことだろうか?」と
 自問自答したら、悪人でもひねくれ者でも、
 正解を言えるのではないかと思うのです。
 
 そんなことを言ってるぼく自身が、どうなのか。
 むろん、いつも「誠実」であったとは言えません。
 ただ、弁解はいくらでもできるのかもしれませんが、
 じぶんの「誠実」でなかったことについて、
 それは誠実であった、と言い換えることはできないです。
 
 もうひとつの、「貢献」ですが、
 これについては、じぶんではわかりにくいかもしれない。
 わかりやすい、見えやすい「貢献」はあります。
 サッカーでゴールネットを揺らしたら、
 それは「貢献」したに決まっています。
 逆に、ものすごく努力したとか苦労したとかがあっても、
 「貢献」してないということも、たくさんあります。
 ただの笑顔が、「貢献」するということだってあります。
 いわば、「貢献」というのは、価値を稼ぎだしたこと。
 
 「誠実」と「貢献」のかけ算が、
 選手というか、メンバーの評価になるんじゃないか。
 むろん、どちらがより大事かと言えば、
 「誠実」のほうである、とは思っています。
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脚本を書くスピードについては「若い時の方が遅かったかもしれない」とのこと。「それはきっと、自分に自信がなかったからだと思います。こんなこと書いたらつまらないヤツだと思われるんじゃないかとか、余計な自意識があって、けっこう悩んだりしていました。でも、20代後半くらいにそれらがなくなり、速くなったのかもしれない。やっぱり脚本は勢いで書いている時が一番楽しいですし、後から見返しても、そういう時の方が良いものを作っている気がします」。 宮藤官九郎、脚本でこだわるのは最初の一発目!その理由とは? | ニュースウォーカー